柳宗悦は、インダストリアルデザイナーとして有名な柳宗理の父で、“民藝運動を起こした思想家、美学者、宗教哲学者”(Wikipedia)。
その柳宗悦の著書『雑器の美』を読んだ。共感することが多く勉強になりました。
“雑器”とは、普段使いのための器で、職人の手により作られるが、質素で安価なものとでも定義しているかと思う。
「毎日触れる器具であるから、それは実際に堪へねばならない。弱きもの華やかなもの、込み入りしもの、それ等の性質はここに許されてゐない。分厚なもの、頑丈なもの、健全なもの、それが日常の生活に即する器である。手荒き取扱ひや烈しい暑さや寒さや、それ等のことを悦んで忍ぶほどのものでなければならぬ。病弱ではならない。華美ではならない。強く正しき質を有たねばならぬ。それは誰にでも、又如何なる風にも使はれる準備をせねばならぬ。装うてはゐられない。偽ることは許されない。いつも試煉を受けるからである。」
毎日使うために頑丈にできてないといけない。飾るための美術品ではないから、美を追い求めたものではない。
しかし、そこに美があるというのである。
「彼等はいつも健やかに朝な夕なを迎へるではないか。顧みられない個所で、無造作に扱はれ乍ら、尚も無心に素朴に暮してゐる。動じない美があるではないか。僅かの接触で戦くほどの繊細さにも、心を誘ふ美しさがある。併し強き打撃に、尚も動ぜぬ姿には、それにも増して驚くべき美しさが見える。而もその美しさは日毎に加はるではないか。用ゐずば器は美しくならない。器は用ゐられて美しく、美しくなるが故に人は更にそれを用ゐる。人と器と、そこには主従の契りがある。器は仕へることによつて美を増し、主は使ふことによつて愛を増すのである。」
名も残さない職人の手によって生まれてくる器は、日常使うための機能性、使いやすい形、目障りにはならない色、などに自然となっているからこそ、そこから美が醸し出されてくるのでしょう。
「雑器の美は無心の美である。」
「一つの器の背後には、特殊な気温や地質や又は物質が秘められてある。郷土的薫り、地方的彩り、このことこそは工芸に幾多の種を加へ、味はひを添へる、天然に従順なるものは、天然の愛を享ける。この必然性を欠く時、器に力は失せ美は褪せる。雑器に見られる豊かな質は、自然からの贈物である。その美を見る時、人は自然、自からを見るのである。」
器が生まれてくるところには背景となるバックグラウンドがあり、それがなければ美とはなり得ない。
「機械が人を支配する時、作られるものは冷たく又浅い。味はひとか潤ほひとか、それは人の手に托されてある。その雅致を生み、器の生命を産む面の変化、削りの跡、筆の走り、刀の冴え、かかるものをまで、どうして機械が作り得よう。機械には決定のみあつて創造はない。今のままなら、遂に人の労働から自由を奪ひ、喜びを奪ふであらう。嘗ては人が器具を支配し得たのである。この主従の二が正しい位置を保つ時、美は温められ高められた。」
機械がゼロからデザインし製作するということは無いであろうから、創造するのは人間以外には無いとは思うが、製造するところにおいて、人の手によるゆらぎが美には大切だと思う。
「只伝統を守り続ける地方のみが、今も正しい手工芸の道を歩む。さうして僅かばかりの個人がそれを助けようと努力してゐる。併し「手工に帰れよ」といふ叫びは、いつも繰返されるであらう。なぜならそこにこそ最も豊かに、正しき労働の自由があり、正しき工芸の美が許されてゐるからである。かくて手工のしるしである今日までの民器が、愛を以て顧みられる日は来るにちがひない。歴史は傾くとも、その美に傾きはない。時と共にその光はいや増すであらう。」
この本が書かれてときから数十年経っているが今でも、いや今だからこそ工芸というのは日本の重要な仕事だと思っている。醉器という店をやっている理由のひとつはここにあります。
「あの「猪口」と呼ばれる器を見よ。その小さな表面に、画き出された模様の変化は、実に数百種にさへ及ぶであらう。而もその筆致の妙を、誰か否むことが出来よう。ありふれた縞ものの如きでさへ、同一のものは却つて見出し難いのを知るであらう。民芸は驚くべき自由の世界であり創造の境地である。」
手軽に購入できるような器にも驚くべき美を感じることができる。
「若し共に暮すなら、日に日に親しみは増すであらう。それ等のものが傍にある時、真に家に在る寛ろぎを覚えるであらう。」
美を感じるその普段使いの器をいつも近くに置き、使うと愛着がわき、愛着は癒しを感じさせるのです。